「インターローカル」は私が考案した造語である。この造語で私がいかなる思想(ちょっと、この表現は大げさ過ぎるかもしれないが)を流布したいと思っているのかは「ローカル」・「ナショナル」・「インターナショナル」・「グローバル」の4つの単語もしくは概念との対比のなかで、説明した方が理解して頂きやすい。
インターローカル まず、基本となる概念の「ナショナル」について、名詞形は「ネイション」である。日本語に訳せば「国」「国家」となる。但し、私の極めて個人的な感覚でいくと「ネイション」は「国家」で、「国」は「カントリー」という区別がある。ちなみに日本語では「国」も「国家」もニュアンスの違いはなく住んでいる人のことを「国民」と呼ぶが、わたくし流でいくと「ネイション」に住んでいるのが「ザ・ネイション」だが、「カントリー」に住んでいるのは「ザ・ピープル」である。
ところで、既述の4つの単語のうち、最近、世界で最も支持されているのが「グローバル」である。そして、その対立的位置にあるのが「ネイション」である。しかし、実際は、「ネイション」即ち、「国民国家」という枠組のみが現実社会で実在しているので、実効性を考えた時の支配力に関して言えば「ネイション」が、まだまだ不可侵な力を有している。
「インターナショナル」はどちらかというと「ナショナル」の補完的な概念であり「ネイション」とは対立しない。しかし、現在の国際連合の現状が、「インターナショナル」の限界を例示している。
最後に「ローカル」だが、あくまでも「ローカル」は「ネイション」のパーツでしかなく、特にこの国では、支配もしくは統治の対象としてしか見なされていない。
インターローカル 地方主権論者である私にとっては「地方分権」という言葉は不愉快な言葉である。これは私は日本を「カントリー」と考え、自分自身を「ピープル」と位置付けているからと言い替えることができる。
The government of the people by the people for the people
リンカーン大統領の有名な演説のこのフレーズは、民主主義の本質を語ったものとして、高い評価を得ているが、この国が民主主義の国であるかぎり、私は「ピープル」であり続けたい。そして「ローカル」は「ネイション」のパーツではなく「ローカル」や「ピープル」の集合体が「国(カントリー)」なのである。
この国ではある時期「グローバルスタンダード」が絶対正義とみなされ、「ナショナリスト」と「グローバリスト」の連合軍に「ローカル」はボコボコにやられてしまった。現在においても「ローカル」は瀕死の状態と言っていいが、そんな「ローカル」も「インターローカル」という思想を実践することで生き残り、繁栄を勝ち取ることができると私は考えている。
私たち日本の「ローカル」が、日本の「ピープル」が、国境を越えて他のいろいろな「国(カントリー)」の「ローカル」や「ピープル」との交流と交易に取り組むことで、私たちローカルピープルは生き残っていけると考える。
それ以上に、この国を救うのは日本中の「インターローカル」な日本人であると私は確信している。
余談だが、リバタリアンが支持するのが「グローバル」であり、リベラリストは、実際「ナショナリスト」と表裏一体の関係である。コミュニタリアンが「インターナショナル」なアプローチをすれば、それは「インターローカル」である。