マスコミが小泉竹中改革を非難できない理由
なぜマスコミは、小泉竹中改革を基本的に支持していて、改革の結果を非難する世論は高まらないのでしょうか。それは、マスコミは大きな意味での官僚システムの一部を担っており、それゆえに無謬でなければならないからです。
中央集権の一翼を担う在京キー局
マスコミは、郵政改革のひどい実態を含めて、「小泉竹中改革の失敗」を報道していません。彼らはいまさら失敗を報道できない立場なのだと思います。
記者の人に会うと、みんな素直に「現状を見ると、小泉改革はよかったのかどうか……」と疑問を口にします。だけど最後に彼らが言うのは、「でもウチの社は今までこれで来てるからなぁ」というセリフです。仮に、反小泉・竹中構造改革の原稿が上に上がっても、それが紙面になったり、オンエアーされたりしないのです。
それは、国土交通省の役人が、「やっぱり規制緩和は失敗だったけど、ウチの役所は今までこれで来てるからなぁ」というセリフとまったく同じではないでしょうか。
官僚組織においては、本来パブリックサーバントが持っている公益にのっとった個人の良心や本音が、組織によって押しつぶされてしまいます。
民僚組織においても、同じことが当然起こるのです。更に、それがジャーナリズムやアカデミズムの世界でもそうであります。ちょっと悲しい話です。
マスコミが中央集権官僚システムの一部であるというのは、例えばテレビが、東京にあるキー局を中心にした中央集権のネットワークであることを考えれば自明のことです。
東京のキー局は、ローカル局をすべて支配しています。電波がカバーする範囲は地方局は一局一県なのに、関東地方のキー局は関八州をカバーしており、京都所司代が置かれた関西地域は四県をカバーしてもよいというのもおかしな集中の仕方です。マーケットが分厚いところをたくさん持っている放送局だけが、本当のテレビ放送局たりえていて、それ以外の地方局はキー局が作った番組をただ流すだけで、テレビ放送局とは名ばかりであるというのが現状です。そうした中央集権構造が現実に存在していることにもっと注意を向けるべきではないでしょうか。
「マスメディアの集中排除原則」の見返りとは?
マスコミが地方を収奪し続けている、日本の中央集権システムの一部である証拠は、テレビ局の「マスメディアの集中排除原則」(放送の兼業の禁止、マスメディアが他の放送局の株を持つ場合の制限)が見直されつつあることをみれば明らかでしょう。
ホリエモンや楽天が外資系金融資本の助けを借りてテレビ局の株式を買い集めたため、キー局は自分たちの地位が危ういということに気づきました。そしてこれに対抗する根本的な手段として総務省は07年末に放送法を改正し、メディアの集中排除原則を見直し、テレビ局側にホールディングカンパニーの設立を認めました。
そしてこの時期、マスコミはこぞって小泉竹中構造改革路線を支持する論調を敷いていました。このようにして日本人は「小泉竹中構造改革は素晴らしい」と刷り込まれ、洗脳されてきたのではないでしょうか。
こうしたパワーゲームは、東京がすべて仕切っています。
テレビ局の話に戻れば、これまでは地方局の資本に対する中央からの資本の支配はありませんでした。しかし集中排除原則を見直すことによって、キー局は地方局を資本の面からの傘下に収めることが可能になったのです。
これらのことによってメディアは、小泉竹中路線に表立って反対ができない立場に追いやられてしまったわけです。テレビ局にしてみれば、ホールディングカンパニーさまさまですから。
このころ総務大臣をしていたのは菅義偉氏(郵政民営化担当大臣兼務)ですが、こうした貸し借り関係は日本の村社会の場合はちょっと長く尾を引くことになることは想像に難くありません。
郵政民営化のやり方を決めた委員会とキー局のホールディングカンパニー化を認めた審議会の座長は松原聡氏という小泉元首相の側近学者です。