「かんぽの宿払い下げ」不正の構図を暴く
なぜふつうに営業可能なかんぽの宿がたった1万円で売り飛ばされそうになったのでしょうか? 「一定の価値のある国民の財産でも、不良債権の評価は低い」、このロジックで国民の財産は収奪されてきたのです。
竹中氏が郵政事業を「不良債権」と呼びたがる理由
09年初めのかんぽの宿の払い下げ問題のおかしさは、だれが見てもわかることですが、鳩山総務大臣にストップをかけられなければもう少しで国民の大切な財産は、格安でオリックスに下げ渡されてしまうところでした。
なぜこんなバカなことが起こってしまうのか? それを理解するためには、ユダヤやアングロサクソンの金融資本が日本に持ち込んだ弱者からの収奪を正当化するためのロジックである「減損会計」や「収益還元法」を用いたデューディリジェンス(資産評価)の手法をかんぽの宿に適用された背景を理解する必要があります。今回は、とても簡単な説明を試みてみましょう。
竹中氏は郵政民営化について、産経新聞紙上で「不良債権処理はやってよかった。やらなければ大変だった。郵政民営化では219の隠された子会社を洗い出し、利権をむさぼっている人の既得権益がなくなり、納税も増えた。時間はかけなければならないが成果は表れている」
と語っています。さらに、赤字の出ているかんぽの宿を早期に売却したのはよいことだと述べているのですが、私には全く彼の言っていることの意味はわかりません。
そもそも、郵政事業というのは、不良債権なのでしょうか?
そうではないはずです。しかしそれをあえて「不良債権だ」と強弁しているのは、「一定の価値のある国民の財産であっても、不良債権であるから、減損会計とか収益還元法といった不良債権処理の時に使われた評価方法を使って、安く売却してもよいのだ」という収奪のロジックを働かせるために敢えてに言っているだけだとしか思えません。
それはモノの評価の中で、特殊な状況のときにだけ使われる「安く買いたたくための特殊な方法」であって、一般的な評価方法とはいえないはずです。郵政事業に不良債権のレッテルを貼ることによって、1億2000万人の国民の目から見て信じられない安値でかんぽの宿を売却しようとしたことを、竹中氏は本当に正当なことだと自信を持って言えるのでしょうか。
もっと不思議なことは、219社の郵政ファミリー企業が不良債権なのであれば、どうしてその中の中核会社である日本郵便逓送⑭の株の公開買い付けに240億円もの巨費が必要だったのでしょうか?
ぜんぜん話に筋が通っていませんね。
リンゴ畑をむりやりたたき売りさせられたようなもの
簡単なたとえ話をすると、こういうことだと思います。
リンゴ畑にリンゴがなっているのですが、ちょっと作柄が悪くて傷んでしまっていました。「このリンゴは、そのままにしておくと10日くらい後には腐ってしまうので、一刻も早く売りましょう。それも安く売らないと買い手がつきませんよ」と他人から言われて無理矢理に畑ごと売却されてしまったような無茶な話です。
リンゴが痛んでいたからといって、それはたまたまその農家が下手だっただけで、他の人が同じ木でリンゴを作ればまったく立派なリンゴがとれるのに、売らなくてよい畑まで含めて売らせてしまったわけです。
こんなことを、関係者全員(郵政会社経営者、第三者委員会、天上がりした民間人)が正当化しようとしているというのは、私には全く理解できないことです。
このケースが正当化されるのは、畑の持ち主がどうしても明日にでもキャッシュが必要だとか、すぐにでも売却しなければ銀行債務の個人保証を待ってくれない切羽詰まった状況である場合だけです。
しかし日本国が、郵政の財産を明日にでも売らなければならない状況に追い詰められることなどありえないことです。
しかもリンゴ畑の「土地」を売ったことになっているのですが、買った人はそのままリンゴ農家を続けていて、翌年には立派なリンゴを収穫しているのです。
つまり「かんぽの宿は郵政事業の本業ではないからやめなさい」と言われて売却したのですが、買った人はそのままホテルを続けて収益を上げているというのが現状です。ということは、かんぽの宿は竹中氏の言うような「不良債権」では全然なかったわけです。それなのに、不良債権として減損会計や収益還元法をといったテクニックを駆使して安い価格で売るのはまったく筋の通らない話でしょう。そうした評価方法は収奪を正当化するためのロジックでしかありません。
しかも、オリックスに売られるはずだった09年初めのかんぽの宿79件一括売却のケースでは、「リンゴ農家を続ける人は他にないのでオリックスに買ってもらう」、つまりオリックスがかんぽの宿を存続させることを前提にして従業員も引き取ることになっていたわけですが、契約書の上では雇用契約は1年しか保証されておらず、「オリックスは従業員を1年後に解雇してもよい」という契約になっていたようです。まったくもってひどい話です。
当事者しかいない第三者委員会による「問題なし」報告
これついては日本郵政から依頼された第三者検討委員会が「売却は不適切なものとは考えない。違法性はない。」とした最終報告を出しています。
しかしこの「第三者委員会」メンバーは、元日弁連副会長、日本公認会計士協会副会長、日本不動産鑑定協会常務理事の3人のメンバーからなる委員会だったのです。8回の会議はすべて日本郵政の社内で開かれ、毎回日本郵政の関係者も出席していたそうです。
何のことはない、日弁連や会計士協会、不動産鑑定士協会は、今回かんぽの宿を不当に安く評価したような収益還元法や減損会計といったテクニックを駆使して不良債権処理を外資にたたき売ってきた専門職の総本家ですし、ここに並んだ人たちは彼らの親玉ではないですか。そんな人が「第三者」とは片腹痛い。彼らは第三者ではなくて当事者そのものです。そんな人が、まともな判断ができると考える方がおかしいでしょう。
なぜこのような形で国家や国民が一部の民間企業に資産を収奪されなければならないのでしょうか?
この10年間、地方の人々や、東京でも役所や大企業、金融機関に関係のない市井の人たちは、そのようにしてずっと自分たちの財産、すなわち国民の富を収奪をされつづけてきたのです。
自分がストレートに現ナマをもらうよりは、自分の組織がなるたけ肥大化し、役所に富を集中させるように貢献すれば、官僚組織にはしっかりした分配の論理が組み込まれていますから、自分がしかるべき出世の序列から外れさえしなければ、最終的には大きな得をすることになっています。つまるところ官僚が振りかざす「公」というのは、たいてい私利につながっていると考えたほうがよいのです。
日本人がすごく勘違いしている点だと思うのですが、「私利」というのは、個人の利得には限りません。役所は省益を追求して動く組織なのですから。その組織にとっては、「私利」なのです。
福沢諭吉は「私益はいづれ公益となる」という言葉を残したそうです。最近、公益法人法が改正されましたが、役所が考えている公益というのは、限定的な人たちの利益を守るためのものです。決してパブリックの利益を考えたものではありません。
たとえば業界団体は、改正公益法人法では、公益団体にならないのだそうです。なぜなら、「業界の人たちのための団体」だからです。そこでどうするか、例えばバス協会であれば、現在はバス事業者のための団体として公益法人になっていますが、今後はこれでは認められません。そこで「バス協会はバス利用者のための団体である」とすれば、公益法人として認められるのだそうです。
つまり、役所というのはそういう考え方をするところなのです。彼らはパブリックについて語りながら、「パブリックセクターのための私利を図っている」ということが、これからよくわかります。
パブリックセクターだからといって、「公益を図っている」というイメージを安易に持つのは、まちがっているのです。彼らはパブリックの看板を掲げながらあくまで私利を追求しています。それだけになおさらタチが悪い連中なのです。
業界というプライベートが「公益を損なわないで、個々の私利をどうやったら追求できるか、どうやって追求していくのか」を実践するために、業界団体は存在する。そういう考え方の方が、実存主義的かつ社会的に健全と言えるのではないでしょうか。
この国では天下りのためや予算取りのための公益法人ほど看板だけは立派ですが、真の公益に貢献していない事は周知の事実ではないでしょうか。