「道州制」論議のまやかしにだまされるな
なんとなく「中央から地方が権限を取り戻す」というイメージのある道州制ですが、本当に「日本の国のあり方を変えるという話」でしょうか。そこには頭のよい官僚が仕掛けたワナがあるかもしれません。
「道州制」という言葉に「根本的な地方分権」という意味はない
道州制という言葉は、みんな知っていますが、この言葉のルーツはあまり知られていません。
おそらく、頭の良い自治官僚が何か思惑があって創作した言葉なのでしょう。「道」というのは北海道だけに残っていますが、律令制の時代にできたものです。そう考えれば、韓国に道が残っていることにもうなずけます。
中国では、唐の時代に全国を10の道に分けていたそうです。つまり中央集権国家における分割統治の基本ユニットが道であったということなのです。ということは、基本的には「道州制」というのは、真の地方分権になじむ言葉ではないと言えるでしょう。
同じように、道州制という言葉を聞くと、なんとなく「アメリカ合衆国のような連邦制国家になるのだろう」と連想する人が多いでしょう。しかしよく見てみると、アメリカ合衆国の「衆」という字は、道州制の「州」という字とは違っています。アメリカにある州は確かに道州制と同じ「州」という字ですが、では道州制度を採用すると、アメリカ合衆国になれるかというと、決してそうではないという意味が込められているようにも思えます。
つまりここには、道州制という言葉を聞くと「アメリカのようになるのだろう」と思わず連想してしまうけど、実際は似て非なるものに誘導されているという、よくできたまやかしがあるわけです。
もし今言われている道州制を導入したとしても、それは日本の中央政府にしてみれば「国司の派遣先が最近いろいろとうるさいので、少し県から大きくして、権限を多少与えてごまかしてしまおう」程度の中途半端なごまかしでしかありません。「根本的な地方分権をやろう」などという意識はカケラもないのです。
国から実際に根本的な権限を、主権者である地方に降ろそうと思ったら、憲法改正をするしか手段はありません。しかし現在の道州制の議論では、そうした本質的な憲法改正の話はどこかに置き忘れられていると思います。
まず、国が守るべき最低限度の生活水準をはっきりさせよ
日本が中央集権国家のままで、インチキな道州制を敷いたら、郵政民営化のときとまったく同じ構造で、ますます地方格差が広がるに違いありません。
つまり、中央集権に反発をしている、ちょっとウルサイ人たち(最近であれば元気な県知事さんたち)のガス抜きをするために、地方分権の真似事をしようという話なわけですから、ウルサイ人たちは利益誘導に成功するでしょうが、力が弱く発言力もない地方の人たちは、そのしわ寄せを受けて悲しい思いをすることにならざるをえないからです。結局、中央政府の慈悲にすがるしかなくなるでしょう。
結局のところ、いま行われている道州制議論は、日本の国のあり方を変えるという話ではなくて、発言力のあるウルサイ地方の人たちにとっての、「いかにして自分たちにとって都合のよい分権をさせるか」という話でしかないのです。
国から権限を地方がもぎ取ろうとするのであれば、最大の焦点になってくるのは税制です。
私は常々思っているのですが、法人税や相続税が国税と定められていて、地方税の原資は限られているのはいかにもおかしいことです。
法人税は本社のあるところで納めることという決まり自体がおかしいでしょう。本社よりも大きな事業所は全国にあるのですから。
また、ある会社が法人税を納めるのであれば、その内訳が国税部分と地方税部分に分かれていても、まったくおかしくないと思います。
道州制のあるべき姿の前提は、国として保障するべき医療や福祉のような基本的な人権にかかわる部分は、地域によって格差があってはならないということだと思います。
憲法に書かれている最低限度の生活水準を保障するために、国家が行うべき、日本全体で達成されるべき平等、それはいわゆるシビルミニマム、ナショナルミニマムと言われるものですが、その最低限の生活水準と、地域間で格差があってもよいとされる生活水準や公共サービスとはどのようなレベルのものかについての根本的な議論が、この国ではまったく行われていません。
例えば、東京都23区においては、中学生以下の子供の医療費は無料(医療助成金制度・自己負担額)になっています。このシビルミニマムの不平等は、なぜ全く問題とされないのでしょうか。本来であれば厚生労働省からそのような地域に対して、「首長の選挙対策とも思われる、そのような行き過ぎた医療費補助を行うことはやめるように」と指導するべきだと思います。
一部地域で中学生以下の医療費をタダにすることを認めるのであれば、全国的にタダにする財源を確保するべきです。その部分は道州制を導入したとしても変わらず国家の機能として求められているものだと思います。
強者だけが得をする制度改革はもうこりごり
郵便サービスの地域間格差や、高速道路体系の地域間格差は、そうした国家が行うサービス提供の方針についての議論がないままのいい加減な構造改革の結果としてできてしまったものです。郵便サービスの維持は、世界的に見て、基本的人権の一部と言えるものだと思います。この国では今やその郵便サービスの存続すら危うくなっているのです。
道州制に話を戻しますと、「国のフレームの本質は何か」ということを議論しながら、「ではどのような地方自治を行うべきか」と考えずに、郵政民営化と同じようにその場の空気や雰囲気で民営化をしてしまったのでは、力の強い奴、声の大きい奴、上手に立ち回る奴だけが得をする改革にしかならないはずです。
国鉄民営化のときのことを考えてみればわかるように、声の小さいところは、永久に自前では黒字化できない三島会社(JR北海道・四国・九州)のような形でのしわ寄せを受けてしまうわけです。国費で建設した新幹線の権利をぶん取って儲けているのは、力の強い地域なのです。JR東海が2兆円でリニア新幹線の投資を行なう余裕があるなら、その原資で地方の鉄道を整備すべきだと考えます。
JR分割のまやかしと同様の道州制議論のまやかしにだまされてはなりません。